第5話 手繰りよせる記憶
「あの。あのね、山岸優流っていう人、知ってる?」
山岸くんの顔が、鳩が豆鉄砲、になった。
さすがに唐突過ぎたかな。もっと前フリとか…
「なんで…なんで、知ってるの?その人」
「すうぷ屋さん、してたとき…」
「すうぷ屋って、水野が?」
いや、そんな訳ないだろ。私、高2だったし。
「2、2年くらい前。高校生のとき、すうぷ屋さんをしてたその人に、スープをもらったの。凄くおいしくて、温かくて…名前を訊かれたから、私も名前を訊いて…」
ぼそぼそと、要領の得ない私の話を遮るように、山岸くんは言った。
「2年前?ありえない!」
山岸くんはそう断言した。てことは、山岸くんも知ってる人だよね。で、誰なの、その人は?
「あのう…」
「ホントに、2年前?」
「う、うん」
そこ?なんで?
「親父、12年前に亡くなってるんだ。俺が6歳のとき」
「え…」
山岸くんは、私の両肩をその大きな両手で掴んだ。
「ホントにその人は、山岸優流だって言ったの?」
掴まれた肩がちょっと痛くて、覗き込む山岸くんの目が真剣すぎて怖かったけど、私は何度もこくこく頷いた。
「それに、そっくりだった。いまの山岸くんに」
山岸くんはいっそう驚いた顔をして、しばらく考えると私を掴む手を離してくれた。
「話してくれないか?もっと詳しく」
✵ ✵ ✵
土曜日、アルバイトを終えた私を、カフェの前で山岸くんは待ってくれていたのだ。
「お茶飲みに行こ?」と誘われて、私たちは別のカフェへと向かっていた。途中に猫の額ほどの公園があって、「10月に入ってやっと秋らしくなったね」なんて話していた。
公園の脇の道を、一台のワゴン車が通り過ぎた。
あ。と思った。
懐かしい記憶が、するすると蘇ってきた。
隣に佇む、背の高い、あの人にそっくりの彼に私は訊いた。
何かに背中を押されるみたいに。
訊くならいましかない、いまならちゃんと訊けるって、私にはわかったから。
✵ ✵ ✵
「ね。水野、話してくれる?」
山岸くんが少し苦しそうに眉根を寄せて、覚悟したみたいに温かな目で私を見る。
私は話した、あの夜のこと。なるべく細かく、いまではまるで別の世界のようにすら思える、不思議で、でも美しい思い出がちゃんと伝わるように。
ママが言う、コインの表と裏の25時に何故か目が覚めて、促されるように窓を開けた。それは冬の入口にあった季節の、もう一つの時間の扉を開けてしまったんだと思う。
そして窓の下から、その人の声がした。いま隣にいる彼にとてもよく似た、くりくりヘアで背が高い、でも彼よりはもっと明るい慈悲深い目をした、もう少し大人の男の人。
たった5日間だったけれど、毎日違うスープを3種類ずつ用意して、私に選ばせてくれた。
海老のコンソメスープ、大根の和風ポタージュ、プチトマトとチキンのスープ、きのこの豆乳スープ、あさりと根野菜のチャウダー。そのどれもが繊細で深みあってやさしくて温かで、初めて飲む、きっとどこにもない、忘れられないおいしさだった。
懸命にスープ一つ一つの味までも思い出そうとするかのような私の話に、山岸くんは静かに耳を傾けてくれていた。
「それで、どうしてもそのスープの味が再現したくて、いろいろ試してみたんだけど、どれも少しずつ違うの。どうしても、あの味にならないの」
そう途方にくれたみたいに、私は訴えた。
「スープの味、全部覚えているの?」
「たぶん、舌とか細胞とかの記憶なんじゃないかと思う」
山岸くんは、そんな私を子供を見るような目で見た。そして、私の頭を撫でながら言った。
「きっと水野だから、見えたんだと思う」
どういうこと?
「水野はさ、汚れてないっていうか、生まれたまんまっていうか。きっとこれまで、人に何か嫌なこととか意地悪されても、仕返ししようなんて思ったことないだろ?恨んだり、憎んだりしたこともないだろ?」
それは…私というより、むしろママだ。
「そ、そんなことない。それ、買いかぶりすぎ。私だって18年も生きてれば、喧嘩したり、酷いこと言ったりしたことあるよ。そんなキレイな人間じゃないもの」
「そりゃ、そうかもしれないけど。なんか、根っこの部分でピュアというか、キレイで強いというか…」
「強い?」
そんなこと言われたの初めてだ。私は、いままで自分は弱くて無力だと思って生きてきたから。
「人を攻撃する人間は、弱いんじゃないかって俺は思うんだ。相手に酷いことされても、それを受け止めて、浄化できる人間は、俺は強いと思う」
山岸くんは、思っていたより大人なのかもしれないと感じた。
「親父も、そんな人だった。強いから、あの人のやさしさは本物だったんじゃないかって思うんだ」
「素敵なお父さんだったんだね。でも、そう言える山岸くんも、かなりカッコいいよ」
私は思わず、正直にそう言った。背の高い彼が、私に温かな想いを注ぐような目で見つめる。
「水野、お願いがあるんだけど」
「なに?」
「12月21日は、おふくろの誕生日なんだ。それまでに、一種類でいいから、親父のスープを再現してくれないか?」
その意味が、私はわかった。いや正確に言えば、細かいことはわからないけど、それが山岸くんのお母さんへの一番のプレゼントになること。それがいま、たぶん必要だということ。
そしてそこからきっと何かが変わる、私たちにとって、私たちの家族にとっても。
「やってみる。できるかどうか、わからないけど」
「できるよ、水野なら。俺、手伝うから」
←第4話 へ →第6話 へ