ガツガツガツガツガツガツ。
野々村家のリビングで、子犬が一心不乱にドッグフードを食べている。汚れていた子犬を取りあえず綺麗にした盥とタオルを片づけて、柊の母の瞳が戻ってきた。
それまで子犬を撫でたり、食べる様子を嬉しそうに見守っていた3人は、瞳の前で揃って正座した。それを見て、瞳がやれやれと言った表情になる。
「お父さんに訊いてみないと」
瞳の第一声を聞いて、3人が項垂れる。
「おばさん、お願い」
意を決したように、繭里が言う。それを合図に、3人は揃って三つ指ついて頭を下げる。
ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ。
子犬は今度はボウルに入った水を勢いよく飲みはじめた。
「ウチでは無理なんです。お祖母様が許さないから」
灯里がそう言うと、繭里も続ける。
「この仔、独りなの。かわいそうな仔なの。誰かが飼ってあげないと死んじゃう」
「お母さん、僕、ちゃんと面倒見るから。散歩も連れてくから」
そういう息子に、瞳は言った。
「柊が、そんなに犬好きだとは知らなかったわ」
灯里と繭里への優しさから、息子がそう言っているのは母親だからすぐにわかった。でも柊は、そんな母にきっぱりと言った。
「お母さん。僕、犬飼いたかったんだ、ずっと。お父さんに、ちゃんと頼みます」
「そう。じゃあ、柊が責任持って頼みなさい」
「うん」
灯里と繭里が嬉しそうに顔を見合わせて、それから柊に懇願するような眼を向けた。
「大丈夫、僕にまかせて」
そんなふたりに男らしく約束する息子を、瞳は密かに頼もしく思った。
次の日の朝、灯里と繭里は、柊からとても嬉しいニュースを訊かされて飛び跳ねた。
「ほんとぉ?ありがと、柊ちゃん」
「名前、決めなきゃ。ね、繭里」
嬉しそうな幼なじみの姉妹を見て、父親説得に意外に苦労したことなどすっかり吹っ飛んでしまった。
「でも毎朝、ちゃんと散歩に連れてくようにって言われたよ」
「ね、3人で行こう?毎朝」
「うわぁ、楽しみ!絶対そうしよう?」
灯里と繭里が飛び跳ねたりスキップしたりしながら、本当に嬉しそうだ。
学校から帰ると、灯里と繭里はランドセルを置くやいなや、すぐさま柊の家へ行って子犬と遊んだ。
念のためと瞳が獣医さんに連れて行ってくれて、子犬は生まれて半年くらいの男の子だと言われたそうだ。血液検査などもしてもらって、栄養失調気味だけれど、とくに問題はなさそうだと訊いて、3人は安堵した。
「名前どうする?」
と柊が訊く。
繭里は大好きな「アルプスの少女ハイジ」の犬と同じ名前ヨーゼフがいいと言い、柊は尊敬する物理学者・天文学者のガリレオがいいと言い、灯里は日本の犬だから小太郎が可愛いと言った。結局、拾われた強運と、これからもそれが続きますようにという思いを込めて「ラッキー」に落ち着いた。
そして3人は本当に毎朝、揃ってラッキーと散歩に言った。楽しかった。
でもラッキーは残念なことに、わずか5年で病気のために亡くなってしまった。3人は泣いた。そして命には限りがあることも身を持って知った。見上げる夜空の星になったラッキーは、いまも3人の大切な思い出としてそこにいる。
✵ ✵ ✵
早朝のランニングから帰ってシャワーを浴びた柊を、久しぶりの母の朝食が待っていた。ランニングに出かける前はまだ寝ていた父の健ももう起きていて、親子3人でテーブルを囲んだ。
野々村家の朝食は、母の気分次第で和食だったり洋食だったりする。この日は和食で、納豆と卵焼き、ひじきの煮物、ほうれん草のおひたし、なめこと豆腐の味噌汁。食後に林檎を食べ、コーヒーを飲んでいると父が訊く。
「院はどうだ?」
「うん、もうすぐ産学協同のプロジェクトがはじまるから、忙しくなる」
「そうか、がんばって勉強しなさい」
県内の信用金庫に勤める柊の父は、堅実で寡黙な人だ。それだけ言うと、再び新聞を読みはじめる。代わりに母が、久しぶりの息子との会話を楽しむように話しかけてくる。
「そう言えば昨日買い物に行くとき、繭里ちゃんに会ったけど、結婚してだいぶ経つのに子供はまだなのね」
「元気にしてる?繭里」
「せっかくだから、会っていけばいいじゃない。幼なじみなんだし」
「うん」
「でも」
と母が思い出したように言う。
「灯里ちゃんは、いま頃どうしてるのかしらねぇ?」
そう言われて柊は、思わずコーヒーを吹きそうになった。
「あれから一度も帰ってきていないみたいよ。灯里ちゃんがいなくなってから、いろんな噂があったけど、後ろ盾だったリツさんが倒れた途端に、あんなことになるなんてねぇ」
あんなこと、とはもちろん灯里に替わって繭里が勝哉と結婚したことだろう。
「いろんな噂って?」
どんな噂が流れているのか、柊は灯里のために気になる。
「やっぱり、強引なのがよくなかったんじゃないかって」
「強引?」
「そう、リツさんのやり方よ。だって一史さんと織江さんのことだって。結局、一史さんは好きだった万祐子さんを忘れられなかった訳だから…」
「やめなさい、人様のウチのことだ」
新聞を読んでいた父がそう言って嗜《たしな》めたので、柊もそれ以上訊くことはできなかった。だけど母の話だと、リツが強引に灯里と勝哉を許婚にして、リツが倒れた途端、勝哉はもともと好きだった繭里と結婚したことになる。
それじゃあ、灯里があまりにも可愛そうじゃないか。おまけに影でそんな噂話までされたら、帰ってきたくても帰れないだろう。それが本当なら、繭里や勝哉とも顔を合わせたくないのだって当然のことだ。
柊は自分の気持ちより、灯里のことを思って心ない噂話に憤慨したが、それを隠すように言った。
「お母さん、コーヒーもう一杯ちょうだい。僕、自分の部屋行くよ」
「うん。お昼までゆっくりしてなさい。お昼、何か食べたいものある?」
「そうだな。あ、お母さんのちらし寿司」
「了解!まかせなさい」
十八番のひとつであるメニューを息子にリクエストされて、母は嬉しそうにそう言って笑った。
コーヒーを持って自分の部屋に戻ると、柊は窓を全開にした。薫風の季節の爽やかな風が流れ込んできて、頬をくすぐる。階下に『北賀楼』の勝手口が見えて、懐かしい灯里の姿が昨日のことのように思い浮かぶ。
灯里の家の事情が、普通の家と異なることを具体的に意識したのは、小学校の高学年頃だったろうか。それは、繭里がぽつりと言った言葉がキッカケだった。
「繭里とお姉ちゃんは、一緒にご飯は食べないの」
「え?どういうこと?」
「繭里はパパとママと離れのおウチで食べるけど、お姉ちゃんは朝御飯も晩御飯も母屋でお祖母様と食べるの」
「それ、いつから?」
「ん?生まれたときから、ずっとだよ」
「でも灯里も、パパとママと一緒に暮らしてるんだよね?」
そう訊ねる柊に、繭里はまるで当たり前のように言った。
「お姉ちゃんは、お祖母様と母屋で暮らしてるよ。お姉ちゃんのお部屋はそこにあって、ウチにはないの」
いつも一緒で仲の良い異母姉妹の陰の事情に、柊は心がひやりと冷たくなるのを感じた。
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