柊ちゃんは、子供の頃から本当に優しかったな、と灯里は思う。
それは決して表面的な優しさではなくて、子供なのに思慮深い、責任感がある優しさだった気がする。ラッキーのことだって、卵焼きのことだって…。
灯里を取り巻く環境は外からは窺い知れないが、『北賀楼』で働く者にとっては不憫に感じることが多かった。
灯里は、母の顔もぬくもりも知らない。物心ついたときから料亭に廊下続きの母屋で暮らし、祖母のリツが母親替わりだった。
母親替わりといっても、リツは愛情溢れる保護者というよりは、厳しい教育者という形容の方がふさわしい。挨拶から礼儀作法、お茶やお花の教養はもちろん懐石料理の知識や洋食のテーブルマナー、細かなことでは畳の目に添った掃除の仕方から表玄関への打ち水、洗濯では色物や柄物を分けたり、汚れのひどいものは下洗いをしてからなど、灯里は幼い頃からリツの流儀で徹底して躾けられた。
学校に入ってからはお昼は給食になったが、朝晩はリツと一緒に〈まかない〉と共につくり届けられるふたり用の食事をとってきた。しかも食事の間もリツは、使っているダシの種類を当てさせたり、食材の旬を訊ねたり、素材にあった調理法や『北賀楼』の料理へのこだわりなどを教え込む。
傍から見ていても、せっかくの食事を楽しむ暇もなく、気が休まらないだろうと可哀想に思う者が多かったほどだ。しかしそんなリツに、灯里は素直に従った。
その一方で、妹の繭里はごく普通の家庭の、普通のお嬢さんとして育てられた。もともと父の一史は温厚で優しい性格だったし、母の万祐子は育ちが良いせいかおっとりと甘い母親だった。リツであれば灯里に決して許さないであろうパパとママという呼び方も、繭里は許された。
あまりにも対照的な育てられ方なのに、異母姉妹のふたりは本当の姉妹のように仲がいい。それだけが周りの救いだった。
それでも父親としては、灯里に申し訳ない気持ちが働いたのだろう。リツがめずらしく友人との旅行に1泊2日で出かけた際に、灯里を離れの自宅に呼んで過ごさせたことがある。
灯里が6年生の頃で、小学校から帰ると繭里の母に離れへ招かれた。
「おやつがあるのよ。飲み物はミルク?ジュースがいいかしら」
ふんわりと母親らしい温かな雰囲気を備えた義母が、花柄のエプロン姿でそう訊ねた。
リツはいつも隙のない和服姿で、こう言うのが常だった。
「手は洗いましたか?では厨房でおやつをいただいて、食べたら宿題をしなさい」
義母が出してくれた手づくりクッキーは、チョコチップが入ったものとアーモンドが乗った2種類だった。それをホットミルクと一緒に味わいながら、繭里が言う。
「繭里、紅茶のシフォンケーキがよかったなぁ。ねえ、ママ。明日はそれにして。あ、でもお姉ちゃん。ママのクッキー、凄くおいしいでしょ?」
屈託なく笑う繭里に、「うん、おいしいね」と灯里は微笑み返したが、心の中では軽いショックを受けていた。
灯里に用意されるおやつは、いつも料亭御用達の店が届ける和菓子やお煎餅だったからだ。洗練されてはいるけれど、料亭の客用でもあるので子供にとっては温かみが足りない。飲み物はホットミルクやジュースではなく煎茶やお抹茶で、灯里は用意されたそれをいつも自分の部屋で独りで食べる。
夕食は、父は仕事で料亭にいるので、繭里と義母との3人だったが、そこでも灯里は衝撃を受けた。その日の夕食はハンバーグだったのだ。星型のにんじんとポテトが添えられ、市販のデミグラスソースをかけた手づくりのハンバーグも、灯里が初めて口にするものだった。
「繭里、にんじん嫌い~。それにハンバーグのときは、ナポリタンつけてって言ったじゃない」
そう甘えられる繭里が羨ましい。リツは好き嫌いを許さなかったし、食事は出されたものを食べるものだと灯里は思っていた。
「あら、ごめんなさい。ナポリタンはまた今度ね。それにほら、繭里ちゃん。にんじんは可愛い星型にしたのよ」
愛情を感じる母娘の会話を訊いて、いろいろなことを見ないように、感じないように閉ざしてきた灯里の心に淋しさがじんわりと広がる。
夕食後はなんの制限もされずにテレビを見て、繭里とお風呂に入って同じ部屋で眠った。
そして翌朝。
早朝の市場から戻ってきた父も加わって、朝食になった。
リツとの朝食では決して出ることのない、洋食の朝食。トーストに野菜サラダ、卵焼きとハム、パンプキンスープ、オレンジジュース…。
卵焼きをひと口食べて、灯里は唖然とした。それはお菓子のように甘かったのである。灯里がいつも口にしている、上品なだし巻き卵とは180度違うものだった。
お母さんの卵焼きは、こんなに甘いものなの?
板前の父も、繭里と同じように、その甘い甘い卵焼きをおいしそうに食べている。トーストを食べ、パンプキンスープを啜っている寛いだ様子の父の姿も、灯里には初めての光景だった。
灯里の知る父は、リツの前で神妙にその意見に耳を傾ける板前のものだったからである。
✵ ✵ ✵
「お母さんの卵焼きは、お菓子のように甘いものなの?」
その疑問を、灯里は柊に確かめた。
「なぜ?そんなには甘くないよ」
不思議なことを訊くね、という顔をした柊が「あっ」という表情に変わった。
それから数日後、灯里は柊から小さな包みを渡された。
母屋に帰って自分の部屋で、灯里はその包みを開けてみた。そこにはアルミ箔に包まれた卵焼きが入っていた。柊の母親がつくってくれた卵焼き、それを灯里は恐る恐る口に運んだ。
ほんのり優しい甘さだったけれど、お菓子みたいに甘くはなかった。
お母さんの卵焼きは、みんな違うんだ。
あたしのお母さんの卵焼きは、どんな味なんだろう。
「母に会ってみたい」と、初めて灯里の本心が叫んでいた。
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