読切り小説「雨 音」

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しとしとしとしと。

今日は朝から、優しい雨が降っている。

優芽ゆめは、病室の窓から窓ガラスを濡らす霧のような雨を見つめた。

 

雨の日はサッカーができないから嫌いだ、と弟は言った。

雨の日は洗濯ができなくて困るわ、と母は言った。

雨の日は会社に行くのが嫌になる、と父も言った。

 

みんな、雨が嫌い。

だけど、そんな嫌われ者の雨が、優芽は好きだ。

だって。

雨が降ると、「おと」がやってくるから。

 

 

午前中の回診が終わって、もう午後はやることがない。

のろりのろりと流れていく時間と折り合いをつけるのが、長期療養のコツだ。

でも、雨の日は違う。

時間が勝手にかくれんぼする。

忘れてていいよって、かくれんぼする。

 

目をつむる。

やがて「音」が、雨音とともに現れる。

 

「優芽」

 窓辺に座った小さな「音」は、子供のように見える。

 背中に羽のようなものがあって、雨に濡れたら飛べなくなるんじゃないかと心配になる。

「音、来てくれたの?」

 「音」はなんでも知っている。子供のように見えるのに、なんでも。

「お誕生日おめでとう」

「知ってたの?」

 優芽は驚いて、そう「音」に聞く。

「うん」

 優芽は、15歳になった。

 高校の制服が、自宅の優芽の部屋に飾ってあることだろう。

 でも、それに袖を通す日がこないかもしれないことを、優芽は知っている。

 

 数日前、医局の前の廊下で、母親が泣いていたのを見てしまったから。

 窓をじっと見る父の背中に顔を埋めて、母は泣いていた。

「まだ、恋だって知らないのよ」

 

 恋…。

 確かに、知らない。

 中学の男子は、意地悪でめったやたらにうるさくて、何を考えてるのか全然わかんない生き物。

 恋なんて…。

 でも知らないまま死ぬのは、やっぱり可哀想なことなんだろうか。 

 恋…。

 それは漠然とわかっていた自分が死ぬのだという事実と同じくらい、実感がわかなった。

 

 それは、きっと「音」のせいなんだ。

 「音」は絶対に、一度消えた経験者だ。つまり、小さな年下の先輩。

 こんな小さな「音」が経験したのなら、「死」はきっとあたしだって大丈夫。

 

「ねぇ。優芽、何を考えているの?」

 なんでもお見通しのくせに、「音」がそう聞く。

「ねぇ、音。消えるって、どんな感じ?」

 この世界から、大切な人たちの傍から。

 

「そうだなぁ、遠くへ行くって感じかなぁ」

 「音」がだいぶ呑気に言う。

「遠くへ?」

 それだけ?って思った。

「うん。全然、たいしたことないよ」

 そうか、たいしたことないのか…。

「ねぇ、音は怖くなかった?」

「なんだ、優芽は怖いの?」

 どうだろう。

 考えないようにしてきたけど、たぶん、ちょっと怖い。

 

「大丈夫だよ、僕がちゃんと一緒にいるから」

「音が?」

「うん。ちゃんと迎えに来るから」

「ホント?」

「うん。次の世界で、僕たちは一緒。そう、決まってるんだ」

 小さな「音」にそう言われて、優芽はほんの少しだけ安心できた。

 だから笑顔になって、こう聞いたのだ。

 

「ねぇ、音は恋したことある?」

 

 

 父と母は、どんな恋をしたんだろう?

 恋って、本当のところ、どんなものなんだろうか?

 「音」は、それくらいあるよってふくれたけど、きっと嘘だと思う。

 だって音は、どう見ても10歳くらいだ。

 弟がいるから、わかる。弟は恋なんか知らない。弟の世界の80%はサッカーだ。

 

 音は、じゃあ教えてあげるよって言ったけど、どうやって?

 優芽はくすりと思い出し笑いをすると、枕元の電気を消した。

 

 

 

 制服姿の少女が、バス停に立っている。

 その少女が着ているのは、優芽が行くはずだった女子高の制服だ。

 ミッション系の女子高で、制服はめずらしいひだのあるジャンパースカートだ。セーラー服やブレザーとも違うその女子高の制服は、女子の憧れで、そして男子に人気だ。

 女子高の近くには進学校の男子校があって、このふたつの高校の生徒たちは意識しあっていた。

 でも奥手が多いお嬢さん学校の女子と、真面目でIQの高い進学校の男子たちの距離は、日本とコスタリカくらい遠かった。

 つまり、行き方すらすぐにはわからないくらい。

 もちろん、例外はある。それは、どんな環境だってそうだろう。

 

「お。可愛い子がいるじゃん」

 バスに乗っていた男子たちが、バス停に立っている女子を指さして言った。

 その声は女子の耳に届いて、隣に立っていた友達らしい女子が少女をひじでつついた。

 少女は無言で、頬を染めていた。

 

 やがて進学校の制服を着た三人組の男子が、バス停に走ってきて少女の乗るバスに間に合った。

 バスの中で、三人組の男子は少女をちらちらと見ている。

 どうやら少女は、男子生徒たちの気持ちをそわそわさせる程度には、魅力的らしい。

 

 お母さん、こんなに可愛かったんだ。

 お父さん、三人組の中では一番背が高い。

 優芽が見ているのに、少女だったお母さんと、背の高いお父さんの距離は全く縮まらない。でも、ちらちら交わされる視線で、お互いが意識しているらしいのがわかった。

 

 もうっ、お父さん何してるの?

 ぼやぼやしてたら、恋に積極的な私立高の男子たちがお母さんに先に告白しちゃうよ。

 実際、少女を可愛いと言った男子の一人が、何か手紙のようなものを渡していた。

 もちろん、進展はしなかったけれど。

 

 恋って、まどろっこしいんだな。

 そして、甘酸っぱくてせつない。

 胸の奥に、風に舞う紙飛行機をどうしても捕まえられないようなもどかしさを感じながら、優芽は虚空に手を伸ばす。

 飛んで行ってしまう、お父さんの想い。お母さんの気持ち。

 アクシデントは何も起こらない、キュンな日常が積み重なっていく。だからこそ、これはドラマじゃなくて真実。

 

 やがて卒業式が終わって、いつものバスにいつもの生徒たちの姿はなくなった。

 そんなある日、神様が気まぐれを起こした。

 いつものバス停で、なぜかお父さんとお母さんは偶然出会った。

「大学、決まった?」

 思い切って話しかけたのは、お父さんだった。

「…はい。えっと、そっちは?」

 ちょっと驚いた様子のお母さんだったけど、そう答えた。

「決まったよ。キミは、どこ?」

「S大です」

 今度はお父さんが驚く番だった。

「S大!?」

 こくっと頷くお母さん。

 お父さんは、天を仰いだ。

 なんだか、ドラマみたい。

 

「僕もS大」

「え。理数系じゃなかったんですか?」

 お父さんの通っていた進学校は、理数系が優秀だ。

「うん。僕、英語が好きなんだ」

 S大は、留学生も多く受け入れている東京の大学だ。

 地元の国立や大阪方面の大学に進学する生徒が多い中で、S大を目指し合格するのは少数だ。

「じゃあ…」

「また、会えるかもしれないね。今度は大学で」

 

 紙飛行機は、ちゃんと飛ぶ方向を知っていたんだ。

 優芽は、そう思った。

 そしてなんだか安心した優芽は、夢見るように遠くへ旅立っていった。

 

 

 

 しとしとしとしと。

 今日も優しい雨が降る、小さな街の病院。

「やっぱり雨だったわね」

 母親になったばかりの女性が、産まれたばかりの我が子を抱く。

「俺のせいだな。プロポーズしたときも、結婚式のときも雨だった」

 ふふ、と母親になったばかりの女性が笑う。

「名前、どっちにする?」

「うん。優雨ゆうがいいと思うんだ」

「男の子っぽくないかなって、ずっと悩んでたじゃない」

「ダメ、かな?」

「ううん。いいと思う、素敵な名前」

 

 そして。

 同じ頃、隣りの街の病院でも、小さな命が産声を上げた。

 小さな手をぎゅっと握りしめて泣く女の子は、美音みおんと名づけられた。

 

 同じ日、同じ時間。

 ふたりが同時にこの世に生を受けた奇跡を知るのは、もっとずっと先のこと。

 世界は、小さな奇跡でできている。

 その日、昼過ぎまで降り続いた雨は、やがて2つの街に美しい虹の橋をかけた。

 

              -了ー

 

 

 

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