読切り小説『猫は無心に光と遊ぶ』

 

カーテンを開ける。

いきなり飛び込んできた朝陽に、思わず目をつむる。

まぶしいよ」

 ベッドの中から、ちょっぴり不機嫌な声が聞こえて振り返った。

「ごめん」

「おいで、仄香ほのか

 慎之介が、ベッドの中から手を伸ばす。

「いいお天気よ」

「日曜日だぜ?」

 うん、とうなずいて仄香はベッドに近づく。

 その左手首を乱暴につかむと、慎之介は仄香をベッドに引き入れた。

 

「小麦が、見てるよ」

 そう言った仄香の唇をキスでふさいでから、慎之介は言った。

「猫に見られるくらいなんだよ。いつものことじゃないか」

 そう言って覆いかぶさる慎之介の背中越しに、茶トラの小麦がきちんとお座りしてこちらをじっと見ているのが見えた。

 

 

✵ ✵ ✵

 

「これ、お願いします」

 慎之介が経理部にやってきて、何か伝票を渡しているのが見えた。

「はい」

 と顔を赤らめながら受け取ったのは、仄香より1年後輩の女子社員だ。

 慎之介は伝票を渡すと、一度も仄香の方を見ずに経理部を出て行った。

 

「かっこいいよね、松井先輩」

 後輩の女子達がささやき合う声が聞こえてくる。

 課長がわざとらしく「こほん」と咳をしたので、女子社員たちは首をすくめておしゃべりを止めた。

 

 そうなのだ。松井慎之介はかっこいい。本社で1,2位を争うくらいに。

 だから田村仄香は、会社帰りに慎之介から待ち伏せされて告白されたときは心底驚いた。

 どうして? どうして、あたし?

 仄香は知っている。

 会社には、自分よりずっと美人や可愛いがいっぱいいる。中の中くらいの自分に、クールでカッコイイと評判の1年先輩が好意を持つわけがない。

 

「俺、キミみたいに控えめで大人しくてシャイながタイプなんだ」

 慎之介は、そう言った。

 間近で見る長い睫毛に覆われた綺麗な目にどきどきしながらも、仄香は最初断った。

「そんな。他の女子社員に恨まれます」

 仄香の断る理由を聞いた慎之介は、自信たっぷりに笑った。

「じゃあ、こうすればいいよ。俺たちの社内恋愛は秘密。極秘案件と言うことで」

 

 自信たっぷりのモテ男は、いかにも慣れた態度で、あっと言う間に仄香との関係に既成事実をつくった。

 以来、ほぼ毎週のように週末は仄香のマンションへ泊りに来る。

 流されるように慎之介とつき合いだした仄香だったけれど、いまは慎之介のことが自分でもあきれるほど好きだと思う。

 

 

✵ ✵ ✵

 

「うまいな、仄香のメシ」

 ごく普通の炊き立てご飯と、豆腐とわかめとねぎのお味噌汁。納豆に、慎之介が好きなだし巻き卵。焼き鮭と豚の生姜焼き、野菜サラダをちょっとずつワンプレートで。

 料理は比較的、得意な方だと思う。

 慎之介の好みに合わせることが、むしろ楽しかった。

 お昼ご飯を食べた後は、ソファに並んで座って映画やドラマを観る。

 

 

 それは、まったくの偶然だった。

 小麦が何かに反応して、壁に向かってジャンプしたのは。

「なに?小麦、どうしたの?」

 急に何かにじゃれ始めた小麦に驚いて、仄香はコーヒーカップをローテーブルに置いた。

「もしかして、これか?」

 慎之介が左腕を動かす。

 途端にまた、小麦がひときわ高くジャンプした。

「…光。…太陽の」

 やっと、仄香にも合点がいった。

 慎之介の腕時計が、窓から差し込む陽の光を受けて、壁にまあるい光の反射をつくったのだ。

 

「あはは。気に入ったか、このオモチャ。ほら、今度はこっちだぞ」

 慎之介は角度を変えて、壁のいろんな方向に光を反射させる。

 小麦はもう夢中で、その光の反射を追いかけたり、待ち伏せしたり、ジャンプしたりと忙しい。

 

 …幸せ。

 仄香は、そう思った。

 これが、このなんでもない出来事に笑いあえることが、とても大切な幸せに思えた。

 

 

 

✵ ✵ ✵

 

 金曜の夜、仄香のマンションにだいぶ遅くなってからやって来た慎之介は、ひと目で機嫌が悪いことがわかった。

 こんなときは、気をまわしていろいろ聞きだそうとしない方がいい。

 つきあって1年もすると、仄香はそんな慎之介への応対を自然に身に着けていた。

 

「ウイスキーある?」

 少し酔っている様子の慎之介が、さらに強いお酒を欲している。

 仄香は黙ってウイスキーのロックと、スモークサーモンやチーズ、野菜スティックなどを慎之介の前に並べた。

 慎之介は、ウイスキーをいきなり半分ほどぐいっと飲む。

 それから仄香に襲いかかるようにして、ソファで抱いた。

 

 まるで嵐のような行為が終わって、慎之介がシャワーを浴びにバスルームに行っている間に仄香は洗い立ての下着とパジャマをベッドに置いた。

 慎之介は、バスルームに着替えを置かれることを好まない。

 何度か置いてもバスタオルを腰に巻いて出てくるので、その度にバスルームに置いたばかりの下着やパジャマを取りに行って悟った。

 慎之介は、ベッドに腰かけて着替える派なのだ。理由など、聞いても答えないだろう。

 

「お前も、シャワー浴びてくれば?」

 新しくつくったウイスキーのロックを飲みながら慎之介がそう言ったので、仄香はバスルームに行った。

 

 

「転勤だってさ、名古屋支社に」

 それは、慎之介が思い描いていたルートから外れることを意味していた。

「そんな…」

 二の句が継げなかった。

 そんな仄香に、慎之介は言った。

「別れる?」

 慎之介が試しているのは、明白だった。

 仄香は静かに、でもはっきりと首を振った。

 

 

 

✵ ✵ ✵

 

 週が明けた月曜日、慎之介の転勤が社内にも発表された。

「なんでも、名古屋支社からデキる若手が欲しいって言ってきたんだって」

「業績悪いからって、本社の一番の戦力を持ってくなんてヒドクない?」

 慎之介の転勤は、左遷ではなく抜擢だったようで、社内のうわさ話に仄香はほっと胸を撫でおろした。

 

「松井を奪われるのかぁ。イタイなあ」

「名古屋支社は、お前にかかってるぞ。がんばれ」

 そんな部長や同僚たちの励ましに、まんざらでもない表情の慎之介が答えていた。

「やれるだけ、やってきますよ」

 

 

 そして、遠距離恋愛がはじまった。

 社内で慎之介の姿を見かけることはなくなったけれど、社内恋愛がバレないように気を遣うことはなくなった。 

 寂しくないわけではないけれど、どこはほっとする自分を仄香は自覚していた。

 毎週とはいかないけれど、はじめのうちは二週間に一度は会っていた。慎之介の名古屋の部屋で、仄香の東京のマンションで。

 名古屋支社の業績を立て直すのはなかなかに難しいようで、慎之介がらしくない愚痴を言うこともふえた。

 仄香はただ、それをじっと聞いていた。口を挟むことを慎之介が嫌うのを、知っていたから。

 ただ心を込めて慎之介のために食事をつくり、慎之介が好きなように抱かれた。

 

 遠距離恋愛が8か月を過ぎた頃、慎之介が「俺が東京へ行く」と言うのがふえた。

「大丈夫だよ、あたしが行くよ?」

 新幹線代とか気を使ってくれているのだろうか、最初はそう思った。

 けれども、二週間に一度が一ヶ月に一度になり、会えない月もあることが重なると、心の中に不安の風が吹きはじめた。

 

 何かが、変わりはじめている。それも加速度的に。

 仄香の予感は、あっけなく的中した。

 

 

 

✵ ✵ ✵

 

「名古屋支社の派遣のが…」

 その一言で、全てを理解できた。

 俺の子だ、と慎之介は言った。

 短大を出たばかりで、まだ二十歳はたちだと言う。

 

 本社内を、噂がまたたく間に駆け巡った。

「松井先輩、結婚しちゃうんだってぇ」

「え~、ショック!」

「相手、まだ二十歳だと」

「わっか!」

「それより聞いたか?なんでも名古屋の○×会社の娘らしいぞ」

「逆玉か?」

「なんかぁ、会社も辞めるらしいょお」

「え~、ショック倍増~」

 

 聞きたくない噂話が、嫌でも仄香の耳に入って来た。

 これでもか、これでもか、という具合いに。

 たった一人だけ、仄香の社内恋愛を知っていた大学時代の友人は言った。

「社内恋愛、極秘にしててよかったじゃない。じゃなかったら、アンタのショックはこんなものじゃなかったでしょ?」

 

 その通りだと思った。

 だけどその言葉を聞いたとき、こらえていた感情が決壊した。

 仄香は、三日三晩泣いて会社も一日休んだ。

 ソファに座って泣き続ける仄香の膝に、小麦が乗ってくる。

 心配そうに見上げる小麦を、仄香は抱きしめた。

 もうこのソファの左側に、慎之介が座ることは永遠にないのだ。

 好きな人ひとり分の空間は、ぽっかり空いた仄香の心の空洞だ。

 涙が次から次へと流れ出て、愛しい人との思い出が残酷なくらいよみがえってくる。

「小麦、お前は寂しくないの?」

 仄香の膝の上からとん、と床に降りると、小麦はゆっくりと伸びをした、

 

 

 小さな携帯ライトで、仄香は壁に光をつくる。

 小麦がちょっと興奮気味に、その光に向かってジャンプする。

「久しぶりだものね、この遊び」 

 もう腕時計が小麦の遊び友達である光をつくることはないけれど、この携帯ライトなら夜でも朝でもいつだって、小麦の好きな光を生み出せる。

 方向だって高さだって自在に。

 小麦は新しい光を得て、無心で遊ぶ。

 その姿は、仄香の傷ついた心をゆっくりと癒していった。

 

 

 

✵ ✵ ✵

 

「こんにちは」

 部屋を出たところで、1ヶ月ほど前に隣に越してきた人とばったり出くわした。

 その人は、いつものジーンズにグレーのパーカー、スニーカーという格好で、コンビニのビニール袋を手にしている。

 何をしている人だろう、と仄香は会うたびに思った。

 いつもジーンスやチノパンのラフな格好で、サラリーマンには見えない。かといってフリーターにも思えないのは、このマンションに住んでいることだ。

 1LDKで家賃はペット可物件だから、周辺の同じタイプより少し割高。

 仄香もちょっと無理をしてここに住んでいるし、ある程度の定期収入がなければもっと安い物件を選ぶ方が自然だ。

 

「にゃ~」

 仄香が手にしている猫用のキャリーの中で、小麦が小さく鳴いた。

「猫、ですか?」

「あ、はい」

「…名前は?」

「小麦です」

「へぇ」

 それだけだった。

 隣人の彼にぺこりとお辞儀をして、仄香は近くの動物病院へ向かった。

今日は小麦の定期健診。至って元気、と獣医さんからお墨付きをもらえた。

 

 ある日、仄香が買い物に出かけようと家を出ると、また隣人の彼とばったり出会った。

 いつものジーンズ、グレーのパーカー、そして手にはコンビニのビニール袋。

「こんにちは」

 仄香からそう声をかけた。

「あっ」

 何か急いで帰ってきた様子の隣人は、仄香を見て唐突に立ち止まった。

 いつものように挨拶を交わすでもなく、仄香の行く先をふさいだまま考え込んでいる。

「?」

 怪訝《けげん》な表情になった仄香に、隣人は思いがけないことを言った。

「あの…お願いがあるんですけど」

 

 隣人の部屋にいたのは、2匹の小さな毛の塊、黒と黑虎の仔猫だった。

「この仔たち、どうしたんですか?」

「仕事貰ってる会社の近くに、捨てられてたんです。あ、僕フリーの作曲家なんです、CMソングとか、ゲーム音楽とか、映画音楽関係の」

 仕事してたんだ、と仄香は密かに思った。

 そして、そんな仕事があるんだな、と自分の知らない世界で生きる彼にちょっと興味を持った。

 

「それで、拾って帰ってきたはいいけど、猫飼うの初めてで。取りあえずコンビニで猫缶買ってきたんですけど、あげても大丈夫でしょうか?」

 そう言って隣人がビニール袋から出したのは、成猫用の猫缶だった。

「取りあえず、動物病院で診てもらった方がいいと思いますけど。病気にかかっている可能性もないわけではないので」

「そうなんですかっ!?」

 隣人が慌てている。

「あの、うちの仔がかかっている動物病院、お教えしましょうか?」

「お願いしますっ!」

 

 結局、仄香は動物病院とペットショップまでつき合うことになった。

 動物病院でも、ペットショップでも、仔猫の飼い方についての話を一生懸命に聞いている隣人が好ましかった。

 仔猫のご飯やトイレなど、たくさんの買い物を抱えながらの帰り道で仄香は言った。

「うちの小麦も、実は保護猫なんです」

「保護猫?」

「はい。あたし、捨て猫って言い方好きじゃないんです。捨てられていい猫なんて、この世界に一匹もいない」

「だから、保護猫?」

 仄香は隣人を見上げながら大きく頷いた。

 

「あの、名前なんて言うんですか?猫じゃなくて、その…」

「あ。田村です」

「…えっと、下の名前は?」

「仄香です、田村仄香」

「イメージ通りの名前だ。可愛い名前ですね」

 そう軽く噛みながら言って、隣人は顔を赤くした。

 なんだかとても素朴で正直そうなその様子に笑いをこらえながら、仄香は聞いた。

「あなたは?」

「僕ですか。僕、寺本光って言います」

 

 光…。

 そうだ、この仔たちにも携帯ライトをプレゼントしよう。

 そして光さんには、猫の光での遊ばせ方を教えよう。

 密かにそう決めると、仄香は再び彼を見て微笑んだ。

 その瞬間、なぜか彼がまぶしそうに目を細めた気がした。

 

「夕焼け、きれいですね」

「はい」

 並んで歩くふたりの後ろに、寄り添うように揺れる影があった

 

 

               -了-

 

 

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