第7章 かけ違えるボタン-9

激しく抱いて傷つけて
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 あの夜、ニューヨークへ行くといったシンジにショックを受けて、べろんべろんになるまで酔ってしまったカオルを思い出しながら、灯里は保護者用の短期留学説明会の資料をまとめていた。

 想う相手が眼の前からいなくなる、その空洞のような喪失感を灯里はよく知っている。あの無邪気で正直で真っ直ぐなカオルは、それに耐えられるんだろうか。

 独りでダンサーとして成長しようとするシンジの決意も応援したいし、カオルの純な想いも叶ってほしい。

 生き方と気持ちに真摯という意味において、ふたりはとてもお似合いだ。ずるくてけがれた自分とは大違いだと、灯里はいまさらながらに思う。

 

「あの、北川さん。お昼行きませんか?」

 斜め向かいの席から、控え目に由紀子がそう声をかけてきた。

 もうそんな時間かと、壁に掛かった時計を見ると、確かに12時を15分ほど過ぎていた。

「行きましょうか」

 由紀子にそう微笑むと、灯里はお弁当の入った手提げ袋を持った。

 カフェテリアで向かい合って、いつものようにお弁当を広げる。由紀子のそれは相変わらず手が込んでいておいしそうで、毎日シェフの手づくりお弁当だなんて、本当にかなりのお嬢様だ。

 職場にも灯里にも慣れてきたらしい由紀子は、最初の頃のように無口ではなくなって、こうしてふたりのときはそれなりに話をするようになっていた。仕事の方は元来あまり器用ではないらしく、まだまだ慣れなくて眼が離せないのだが。

 

「北川さんは、毎日、お弁当自分でつくるんですか?」

 由紀子と比べるとかなり質素なお弁当の中身を見て、そう訊ねられた。

「うん。だって独り暮らしだから」

 自分でつくらなければ、お弁当も夕食も出てこない。

「私も、自分でつくってみようかな」

 突然、由紀子がそんなことを言いだすので、灯里はちょっと驚いた。

「どうしたの?突然」

 だって、と由紀子は赤くなりながらこう続けた。

 

「お料理ができない女って、やっぱりダメですよね?」

 もしかしたら、と灯里は思った疑問を由紀子にぶつけてみた。

「好きな人とか、できた?」

 由紀子が驚いたように眼を見張って、真っ赤になった。わかりやす過ぎる。

「ごめんね、余計なこと言っちゃった」

 謝る灯里に、由紀子は首を振るとキッシュを口に運んだ。

「母は…母はときどきつくるんです。父のために。でも、もともとお料理があまり好きではないらしくて」

「そう」

「それに父も忙しくて、家で食事をするのは朝と日曜くらいで…」

「でもいつもプロのお料理なんて、羨ましいよ。あたし、庶民だから」

 そう言って笑う灯里に、由紀子は訊ねる。

 

「男の人って、肉じゃがとかつくれる女がいいですよね?」

 どこの雑誌やネット情報だ、と思いながら灯里は言う。

「肉じゃがが好きな人もいれば、カレーが好きな人もいるだろうし。人それぞれでしょ」

「北川さんの彼氏は、何が好きなんですか?」

 いきなりそう訊かれて、灯里は戸惑った。

「え、あたしの彼氏って…」

「いますよね、だって…いないわけなさそうだし」

「なんで?そんなことないよ」

 灯里はそう曖昧に言いつくろって、逆に訊ねた。

 

「仁科さんは、どうなの?」

 由紀子はまたはにかんでうつむき加減になりながら、ライ麦パンを食べた。

「私、男の人とおつき合いしたことないんです」

「そうなの?」

「はい。中学から大学まで、ずっとエスカレータ式の女子校だったので」

 これは正真正銘のお嬢様だ、と灯里は確信した。

 

「お弁当から、はじめてみたら?」

「え?」

「お料理。あたしも料理に興味を持ったのは、高校時代のお弁当づくりだったの」

「そうなんですか」

「うん。でもお弁当って、意外に難しいの。全体の彩りとか、冷めてもおいしいものとか、水分が出たり味が移るものとかはダメだし…」

「できるかな…」

「最初は教えてもらいながらがいいよ。だって、プロが身近にいるんだもの。大丈夫、きっとすぐに上手になると思うよ」

「そうでしょうか」

 嬉しそうに、本当に嬉しそうにえくぼを浮かべた由紀子を見て、灯里は彼女の恋が上手くいくといいなと思った。

 

 

✵ ✵ ✵

 

 その日も残業がない由紀子は、大学院の研究室がある棟の前にいた。少しくらい遠回りになっても、帰り際にそこを通るのが日課になっていた。

 偶然に会える確率なんてどれだけあるんだろう、と思ってもかすかな期待に胸をときめかせて、由紀子はその棟の前をゆっくりと通る。

 学食でランチする姿を遠くから眺めることはあっても、カップケーキを渡したあの日から、まだ一度も柊と間近に会えてはいなかった。

 

「いま帰り?お疲れさま」

 不意に後ろから声を掛けられて、由紀子は思わず飛び跳ねそうになった。廊下をうかがうようにのぞいて、何度か行き来していた姿を見られたかと思うと、恥ずかしさですぐに後ろを振り向けない。

 そんな由紀子にかまわず、柊は由紀子に向かい合うように立つと、優しい笑顔で言った。

「この間のカップケーキ、おいしかったです。どうもご馳走さまでした」

 そう礼儀正しく頭を下げられて、おずおずと顔を上げた由紀子は、柊の爽やかな笑顔に頬を染めた。

「あ、いえ…」

「今日は、どうしたの?」

 そう訊ねられて、咄嗟とっさに言い訳が思いつかない。

「あ、なんでも…」

「?そう。じゃ、お疲れさまでした」

 柊はそんな由紀子の不自然さをとくに詮索せんさくすることもなく、そのまま研究室の方へ歩き出す。その背中を、由紀子は思わず呼び止めていた。

 

「あ、あのっ」

 柊が振り返って、怪訝けげんそうな表情を見せる。眉根を少し寄せたその顔が、繊細で賢そうでとても素敵だと由紀子は思った。

「なに?」

 呼び止めたくせに、ぽかんと見つめたままの由紀子に柊は訊ねた。

「あ、いえ…」

 由紀子はそう言い淀んでいったんうつむいたが、やがて意を決したように言った。

 

「お名前は…」

「僕?」

「はい」

 眼を合わせられずに俯いたままの由紀子に、柊は言った。

「野々村柊です。よろしく」

 野々村柊…素敵な響きだ、と由紀子の鼓動はますます速くなる。

「で、あなたは?」

 名前を訊かれている…それだけで舞い上がるほど嬉しくなった由紀子は、上気した顔で訊かれてもいないことまで答えてしまった。

「仁科由紀子です。24歳です」

 

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