気持ちがそわそわと落ち着かない。
駅前のスーパーマーケットで買い物をして、灯里はボクシングジムの前を通った。この少し先で柊に助けられたのが、6年ぶりの再会だった。数ヵ月前のことなのに、もうずいぶん前のことのような気がする。
夜空には満月が少し欠けた秋の月が、ほんわりと浮かんでいる。冴え冴えとした春の月に漠然とした不安を感じて、自らの躰を抱きしめた記憶が蘇る。あのときは、柊とこんな関係になるなんて予想もしていなかった。
終着駅を自分で決めるしかない不埒な暴走列車から、降りるのはいまなのかもしれない。そのためには、確かめなければならないことがある。
知るのが怖いような、でも心のどこかにある確信は、それが平穏への道だと教えている。迷路に嵌まり込みそうになる思考を整理するように、灯里は深いため息を一つつくとまた月を見上げた。
「綺麗な月だね」
ふいに背後から声を掛けられて、深く考え込んでいた灯里は、思わず飛び上がりそうになった。そんな灯里を見て、柊は慌てて謝る。
「ごめん、灯里。僕だよ、驚かすつもりはなくて、ホントにごめん」
「もう、柊ちゃんたら」
そう頬を膨らませて、灯里は並ぶように傍に来た柊を軽く睨んだ。
「ごめん。でも灯里、スーパーを出たところから僕がずっと後ろを歩いてるの、全然気づかないんだもの」
そう柊に指摘されて、灯里はまた驚く。
「ずっと、つけてたの?」
「つけてたなんて、人聞き悪いな。でも、なんか考え事してた?」
図星だった。だから灯里は、反射的に首を振った。
「ううん、別に」
「そう」
「うん」
自分の顔を見ようとしない灯里に、柊は嘘だと気づいたが、それには触れずにスーパーの袋に手を伸ばした。
「重いだろ、持つよ」
「大丈夫よ」
「いいから」
少し強引に柊は灯里の手からスーパーの袋を取ると、灯里の横顔をそっと窺った。
やはり、何かあった。
昔から灯里に関するそういう勘だけは当たっていた、と柊は思う。仕事で嫌なことでもあったのだろうか。でもそれを正面から訊いても、灯里は話さない。とくに弱みを見せることを嫌うのは、自分が年上だと思っているからなんだろう。
バカだな、灯里。素直に僕に頼って、なんでも話せば気が楽になるのに。
頑張りすぎる幼なじみを心の中で労わりながら、柊は何も言わずに隣を歩く。
やがてそれぞれの住む場所の前へ着いて、柊は灯里にスーパーの袋を無言で渡す。
「ありがと」
と言った灯里が、そのまま何か迷っている。だから柊は黙って、灯里の次の言葉を待った。
「あのね、柊ちゃん」
「うん」
灯里が思い切ったように、柊の顔を見上げる。
「話が、ある、んだけど」
「うん」
「あとで、来てくれる?」
「いいよ、1時間後くらいでいい?」
「うん」
灯里から誘うなんて。
柊は踊り出しそうになる気持ちを抑えながら、シャワーを浴びた。清潔なシャツとチノパンに着替えると、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して飲んだ。
ちゃんと話を訊いてあげよう。頼られたことが、心底嬉しかった。
灯里、キミの力になりたい。僕はキミのどんな相談にも乗れる、頼もしい男になりたい。そして心と心をゆっくりと通わせて、いつか必要とされる、離れがたい存在になりたい。灯里、僕はキミに価値を認めてほしいんだ。
✵ ✵ ✵
1時間後、柊は灯里の部屋のインターホンを鳴らした。合鍵は持っていても必要がないときは使わない、それが灯里との約束だから。
ドアはすぐに開いて、少し青い顔の灯里が顔を覗かせた。
「灯里、来たよ」
「うん、入って」
部屋に入り、大きめのクッションの上に胡坐をかく。
「なにか、飲む?」
「いや、いいよ」
柊がそう断ると、灯里は柊の向かいを避けて、ベッドの端にそっと腰かけた。
何から話そうかと、灯里はまだ迷っていた。迷いながら口をついた言葉を、まるで自分の声でないような気持ちで訊いた。
「柊ちゃん、傘を貸した?」
傘? 少し考えて、柊はすぐにピンときた。
「ああ、新しく教務課にはいった娘のこと?」
何でもないことのように言いながら、それがいったい何だというのだろうと柊は訝しく思う。
「彼女、仁科由紀子さんて言うの、知ってた?」
「ああ、確かそんな名前だったね」
柊の熱のない返事に、灯里は少し苛立ちながら言う。
「カップケーキをもらった?」
「もらったけど?でも、それお礼だっていうから。院のみんなで食べたけど?」
「和食が好きだって、言った?」
「言ったけど…訊かれたから」
今度は柊が軽く苛立つ。
いったい何なんだ。彼女とはなんの関係もない。でも、もしかしたら灯里は妬いてるの?そうだとしたら、キミも少しは僕のこと…。
柊が都合のいい解釈をして、もう少し灯里を妬かせてみたいと思ったところに、爆弾はいきなり落とされた。
「終わりにしよう、柊ちゃん」
話の飛躍に柊は驚いた。なんで突然、そうなる?
「え、灯里。終わりって何を?」
「何って、あたしたちのこの関係」
「ちょっと待って。彼女とは何もないよ?灯里、嫉妬してるの?」
間違った方向へ流れそうになる話を、灯里は残酷に元に戻した。
「嫉妬なんてしない。だって、あたしたち嫉妬なんかするような関係じゃないもの、最初から」
側頭部を殴られたような衝撃を、柊は感じた。わかっていても、灯里の言い方は冷たすぎた。
「じゃあ、じゃあ、最初から僕らはどんな関係だったんだって言うんだ」
灯里は一瞬眼を閉じて息を整えると、柊の顔を見ずに言い放った。
「わかっているでしょ?激しく抱きあって傷つけ合う関係、獣のように快楽を貪る躰だけの関係よ」
灯里。
あの音はなんだろう。
たったいま、僕の脳天でした何かが爆発するような音。
聞こえただろう?聞えなかったかい?
じゃあ、教えてあげる。
それはね、こういう音だった。
「ぐおぉおぉおお~」
まさに獣のように、慟哭とも咆哮ともつかない声を上げて、柊は灯里に襲い掛かった。
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