第2話 たとえば星のスープとか
「こんばんは」
近づくと、そう挨拶してくれた〈すうぷ屋〉さんはとても背の高い人だった。少し茶色がかった髪の毛は天然パーマなのかくりくりで、襟足が長めで女の子みたい。長いまつげの奥の瞳は、やさしそうで温かかった。上から見ていたときより、若い感じがして、20代後半くらい、かな?と思った。
「海老のコンソメスープ、パンプキンポタージュ、じゃがいもとトマトのスープ。どれにする?」
そう訊かれて、少し考えた。
「海老のコンソメスープ」
「かしこまりました」
その人はちょっとお道化たように首をかしげてそう言うと、ワゴン車の中に消えた。そして窓から顔を覗かせると言った。
「やっぱ、外じゃ寒いよな。裏にまわって、車内においでよ」
それは少し危険な感じがしたから、ここでいいですと断った。
「そう」
その意味がわかったらしく、その人はそれ以上は誘わなかった。
やがて、はい、と発泡スチロール製の白い器を差し出す。それを両手で受け取った。
「星…」
「ん?ああ、それニンジンを星型にくり抜いたの」
金色のコンソメスープに、三日月のように丸まった小海老と、ニンジンの星が落ちていた。
なぜか、ママのキラキラした目を思い出してしまった。温かいスープをスプーンで口に運びながら、涙で視界が曇る。
「どうしたの?熱かった?」
鼻の頭を寒さが理由だけでなく赤くしながら、私はううん、とかぶりを振った。
その人がワゴン車から出てきた。
「東京には、星がないなぁ」
夜空を見上げると、そう呟いた。
「でも、ここにある」
私は半分齧って、歯型がついたニンジンの星を示した。
それを見ると、その人はクスクス笑った。
「キミ、可愛いね」
顔が赤くなったと思う。カラになった器をはい、と差し出す私の頭をその人は優しく撫でた。
「大丈夫、いろんなこと。辛いときは、温かなスープを思い出して」
今夜も25時に目が覚めた。
窓をそっと開けてみると、昨日と同じところにそのワゴン車は止まっていた。
その人が、昨日と同じやさしい微笑みで見上げる。
「今日は、大根の和風ポタージュ、あさりのミルクスープ、チキンコンソメスープだよ」
私は昨日よりいそいそと、階段を下りた。玄関の鍵をそぅっと開けて、またそぅっと締める。
「大根の和風ポタージュ」
こんばんは、より先にそう言う私に、その人は可笑しそうに言った。
「こんばんは」
「あ」
クスクスクス、と堪えきれない感じでその人が笑う。
「キミ、受験生?」
「いいえ、なんで?」
「だって、こんな時間まで起きているから」
目が覚めたって言いにくい。昨日も今日も、同じ25時に。
もじもじと曖昧にうつむく私に、その人はまたはい、とスープの入った器を差し出す。
ベージュ色のスープに、黒い点々が浮かんでいる。スプーンで口に運ぶと、その点々は黒ごまだとわかった。ちょっとお味噌とごぼうの風味を感じた。
「複雑な味」
そう言う私に、すうぷ屋さんは微笑んだ。
「でも、おいしいでしょ?」
こくんと頷いて、スープをまた啜る。
「名前、なんていうの?」
「水野春灯です」
「はるひちゃん?どういう字を書くの?」
「春夏秋冬の春に、街灯のとうという字です」
「ふうん。春の灯りかぁ。ほんわかした、いい名前だね」
「すうぷ屋さんは、なんて名前ですか?」
「僕?」
僕の名前は、山岸優流だと教えてくれた。
「やさしいに流れると書いて、すぐる」
素敵な名前だ、すうぷ屋さんに似合っていると思った。けど、口に出すことはしなかった。
「僕のスープは、気持ちをほっこりさせるでしょ?だから、キミはきっと幸せになれるよ」
よく考えれば、辻褄の合わない論理だったけど、私はとても納得した。
それから山岸優流さんは、部屋へ戻ってぐっすりお休み、と言って私のほっぺをつついた。
不思議だ。引っ込み思案の私は、クラスの男の子だってこんなに自然に話したことはない。男の子はスカートをめくる、髪の毛を引っ張る、女子の着替えを覗く、給食のプリンを盗る、「おい春灯、ちゅーしたことあるか?」と訊く。だから、嫌いだ。
でもすうぷ屋さん、うぅん、優流さんは違う。大人で、やさしくて、温かい。だから、安心できる。
窓の下に、すうぷ屋さんが来るようになって6日目。
いつもの25時、あたり前ように窓を開けたその下に、いつものワゴン車といつものやさしい笑顔はなかった。
翌日も、その翌日も。すうぷ屋さんはおいしくて温かくて、体の中から人を幸せにするスープとともに消えてしまった。風船になったママのように。永遠に。
ねえ、ママ。あれは私の妄想だったの?毎日深夜25時に、たった5日間だけやってきた私の素敵な妄想の中の人。だけどあのスープは、どれも本当においしかった、やさしい味だった。優流さんのように。
口から胃の中へ、体の隅々へ、細胞の一つ一つへ、するするとやさしく流れて私を幸福にした。ママがいなくなった寂しさや、パパを忘れてしまいそうなくらいの心細い時間を、全部無かったこと、にしてしまうくらい。
そう、無かったことにしてくれた。あの、ひとときだけは。
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