灯里はまだ帰ってきていなかった。
郵便受けで灯里の部屋の番号を確認して、502号室の呼び鈴を押したけれど応答がなかった。しかたなく柊は、再び1階まで降り、マンションの入口を出た。
どうしても、灯里に訊きたいことがあった。でもそれは口実で、本当はただ逢いたいだけなのかもしれないと思う。
灯里が消えた理由や、これまでどうして生きてきたかを訊ねたところで、簡単には話せないことはわかっている。話せるくらいなら、姿を消したりすることはなかっただろうから。
それより、もっと建設的な、前向きな…。これからどうしたいのか、とか…。
いや、ただ僕は、いま僕にできることはないかを訊きたい。
そして、灯里のためならなんだってするつもりだってことを伝えたい。
だって、それこそ6年という月日を経て、僕らが再び出逢えた理由だと思うから。
そうだろ? 違うかい、灯里?
マンションの前をうろうろしながら、柊はまとまらない思考をなんとかまとめようとしていた。
「こんな遅くまで、どこへ行ってるんだ」
灯里の仕事すら知らない柊は、今日が特別遅いのか、いつもそうなのかすらわからない。
とうとう落ち着きなくうろつくのを止めて、建設中のアパートの外階段に腰を下ろした。暗闇の中で、街灯が『入居者募集』の表示板を浮かび上がらせている。
ふいに、デジャブの感覚が起こる。
そうだ、幼い頃、僕たちはこのくらいの近さで暮らしていたんだったと柊は思い出した。柊の家は『北賀楼』の斜め向かいにあり、家族や従業員が出入りする通用口は、2階の柊の部屋の窓からとてもよく見えたのだった。
「おかえり」
新体操の練習で遅く帰ってくる灯里に、そう声をかけたことも何度もあった。「ただいま」と言って月明かりの下、柊を見上げる灯里のなんと可愛かったことか。
「柊…ちゃん?」
甘酸っぱい回想に浸っている柊の耳に、ふいに現実の愛おしい声が聞こえた。
「灯里…」
セーラー服の少女ではなく、大人の女人になった灯里が眼の前にいて、柊は訳もわからず顔が火照るのを感じた。そんな柊の動揺に気づくこともなく、灯里は冷たく言った。
「何してるの?」
何してるのって、キミを待っていたんじゃないか。
「遅かったね、灯里」
「そう?」
と灯里は気だるそうに、腕時計を見た。
「心配したよ、この間みたいに変な男に…」
そう言って近づいた灯里の躰から、アルコールの匂いがした。
「酔ってるの?」
「そうよ、だから?」
強がる灯里に、どうしてなんだと柊は思う。なにがキミを、そんな風に頑なにさせるんだ。
「誰と飲んできたの?」
優しい眼差しで訊ねる柊が、灯里をせつない気持ちにさせる。
「誰とだって…」
いいでしょ?と言いかけて灯里は言い換えた。
「男とよ」
それは嘘じゃない、だってシンジだっていたものと灯里は心の中で言い訳する。
「そう」
柊の眼が悲しげに曇って、灯里はいたたまれなくなる。
誰とだっていいじゃない、そんなの柊ちゃんに関係ないでしょ?
なのに何故、そんな眼で見るの?
幼なじみがすっかり変わってしまったのが、そんなに悲しい?
いいの、放っておいて。
アバズレだって思っていてくれたほうが、あたしは気が楽なんだから。
まるで自分自身に言い訊かせるように、灯里はそう思った。心がちくりと痛むのを感じながら。
「じゃ、おやすみ」
そう言って逃げるように去ろうとする灯里の腕を、柊が掴んだ。
「なに?」
驚いて見上げる視線の先に、柊の苦しげな瞳があった。
懐かしい、愛おしい眼だった。正面からまともに見るのは6年ぶり以上で、灯里は金縛りにあったように視線が外せない。胸の鼓動が早くなるのは、決して酔いのせいではない。
灯里、そんなに怖がらないで。僕はただ、キミが心配なんだ。
キミのその淋しげな瞳、全然らしくない態度。
その理由が僕にはわからない。それが苦しくて、悲しいんだ。
ねぇ灯里。僕はもう、あの頃の子供の僕じゃない。
キミを男として守ってあげられるくらいには、大人になったんだ。
そう、僕はもう大人の男になったんだよ。
見上げる柊の眼が熱を帯びはじめる。
それに呼応するように、灯里は胸の奥が熱くなる。
柊ちゃん、どうして?
灯里、僕は、もう…。
どちらからともなく、吸い寄せられるように唇が近づいた。
カタカタと震える灯里の唇に、柊はそっと自身のそれを重ねる。夜の外気はいっそう冷え込んできたというのに、お互いの唇は驚くほど熱かった。
灯里の唇をゆっくりと覆って、全体を舐めまわすと、灯里の躰がぴくりと反応する。でもその唇は硬く閉ざされていて、硬直した躰と同じくらいぎこちない。
初めての愛しい人とのキス、やがてそれは互いの脳を妖しく痺れさせた。暗闇が次第にふたりを大胆にさせていって、貪るように求めはじめた柊を、灯里の唇は無心に受け止める。
もう、どうなってもいい。
互いの心の声が、聞こえたような気がした。
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