「パラダイムシフト」とは ~コトバンクより~ ある時代・集団を支配する考え方が、非連続的・劇的に変化すること。 社会の規範や価値観が変わること。例えば、経済成長の継続を前提とする経営政策を、 不景気を考慮したものに変えるなど。パラダイムチェンジ。パラダイム変換。 パラダイム転換。発想の転換。 |
登場人物 茅野 暁 サラリーマン 28歳 十久 夕花 老舗蔵元の長女 25歳 |
見渡した景色は、今日も安定の「灰色」だった。
このオフィスビル街に通って、もうじき3年になる。
「早いものだ」
そう呟いた暁の声は、オフィスビル街を通り抜ける強い風にかき消された。
暁が表参道から歩いて数分の、いくらか名の売れたクリエーターの個人事務所に運良く採用されたのは、まさに運だった。
そのクリエーターが講師を勤める広告学校で、いささか目立つパフォーマンスをして、コテンパンに潰された。
それから心を入れ替えて一心不乱に課題に取り組んでいたら、なぜか気に入られて大学卒業と同時に見習い枠に入れてもらえた。
転機が訪れたのは、わずか2年後。
最初に任された小さなキャンペーンで、まさかの新人賞。
あとはとんとん拍子に図に乗って、怒り心頭の師匠の事務所を放り出された。
知り合いの知り合いの、もう知り合いでも何でもないくらいのうっすい縁を頼って、中堅の企業の企画宣伝部に潜り込めたのは、今日みたいに風の強い日だった。
「人生の運、全部使っちゃったかな」
見習い枠に入れたのだって奇跡に近かったし、新人賞はまさに分不相応の奇跡、その灯みたいな実績を買われてこの会社に入れたのだって、人生の大吉だ。
調子に乗って落ちて、また懲りずに調子に乗って自滅。我ながら学習しないジェットコースター人生だと、暁は自嘲気味に口の端を歪める。
打合せが思いのほか早く終わって、そのままオフィスに戻る気がしなくて、暁は隠れ家的に利用している古い喫茶店へ足を向けた。
細い路地を抜けたところにある喫茶店は、不愛想なマスターと不機嫌なマダムがふたりでやっている小さな店だが、コーヒーは旨い。
「キリマン」
メニューも見ずにそう告げると、痩せぎすのマダムが、無言で水とおしぼりを置いて行った。
やがて運ばれてきた旨いコーヒーをブラックで飲む。
ふぅ、とらしくないため息をついて、壁のマガジンラックを見ると古い旅行雑誌の表紙が目に入った。
「旅行か。…だいぶ行ってないな」
やりたい仕事ではない。
かつての様に、自らからアイデアを絞ってチームで喧々諤々検討し、クライアントに提案して、何度もダメ出しをくらって、己に腹を立てては苦しみぬく。
だけど、皆で創りあげたそれが陽の目を見たときの喜びは言い表しようがない。
細胞の一つひとつが沸騰して、背筋がぞくぞくするあの感覚、何日もの徹夜による睡眠不足と疲労がむしろ心地よかった。
いまは、ジャッジする側だ。
提案された企画を、その裏にある苦労に気づかないふりをして却下する。
つい、「俺ならもっと」と考えてしまう。
もし俺に人生の運が残っているのなら、いや残っていなくても、このままではダメだ。
何かを変える手段が、「旅」だなんて笑わせる。
旅程度で人生は変わらない。
旅程度で変わる人生なんて、A4ペラの企画書だ。
簡単に破けて、オフィスビルの谷間に飛ばされていく。
それでも。
と暁は思った。
古いコーヒーの旨い喫茶店を出ると、暁は初めて「有給休暇願」を会社に提出した。
行先など決めていない。
だから、ふとあの娘のことを思い出したのは、ただの偶然だ。
あの娘。
暁が大学3年生のとき、サークルに入って来た、まだ幼さが残る一年生。
流行のファッションに身を包み、背伸びした化粧とヘアスタイルできゃっきゃしている女子大生の中で、その娘は少し居心地悪そうに見えた。
名前は、夕花と言った。
ひっそりと咲く花のようで、日焼けを知らないような面長の顔、さらさらした黒髪が肩先にかかり、伏せ目がちに微笑む様子が「夕顔」のようだと思った。
夕顔は夜に咲く花だ。別名を、黄昏草と言う。
とくに何かがあったわけではない。
その頃、暁は同級生の一人とつきあっていたし、夕花は大人しく目立たない存在だった。
でも、彼女が北の方の出身だということは、なぜかいまでも覚えていた。
行ったことのない土地だ。だから行ってみようと思った。
ただそれだけだ。
新幹線を降りると、東京より数度低い大気が暁を出迎えた。
新幹線ホームを歩いて改札を抜け、在来線とをつなぐ構内を歩く。
駅の出口付近では、この土地の名産を紹介するコーナーが設けられており、ふたりの女性が観光客と思われる人々に声をかけていた。
「十久酒造です。十久酒造の新酒をお試しになりませんか?」
差し出された小さなお猪口を受け取って、数名の客が試飲している。
その方向へ、暁も自然と足が向く。
「十久酒造です。十九酒造の…」
「え…」
相手が目を見開いて絶句した。
暁の顔にも、驚きの表情が現れていたに違いない。
「…暁、センパイ?」
「夕花、ちゃん?」
いやいやいやいや、さすがにそれはないだろう。
同人誌の素人小説でも無いベタな設定だ。
しかし、もう一度見直した顔は、確かに「夕顔」だった。
ひっそりとした少女が、はんなりと清潔な色香が漂う大人の女性になっていた。
「夕顔」のままで。
「旨い、これ、なんですか。口の中にぴりぴりする…」
「酵母だよ。原酒は酵母が生きている。ぴりぴりするのは、酵母が酒飲みに挨拶してるんだ」
夕花の祖父だという人が、そう教えてくれる。
一見いかつい職人肌に見えるが、酒の話になると相好を崩した。
「原酒…」
「原酒は蔵元でしか飲めないお酒なんです」
夕花がそうつけ加える。
「旨い…」
本心からそう思って、暁は少し度数の強い原酒をまた一口飲んだ。
その夜は、なぜか夕花の家でご馳走になった。
酒に強い暁でなければ、ホテルへの足取りがおぼつかなくなっただろうくらいに。
大学を卒業していったんは東京の企業に就職した夕花が地元に戻ったのは、父親が病で倒れたからだ。
現在も療養中だとかで、夕食の席には姿を見せなかった。
職人肌の祖父はいまだ現役だが、次を継ぐ者を決めておかないと、と言う話が急遽持ち上がった。
夕花には一つ下の弟がいる。
大学を卒業して希望通りの企業に就職が決まり、将来は海外赴任を夢見ていた。
「頼りないけど、あたしが継ぐことにしたんです」
「夕花というより、継いでくれる婿養子をいま探している」
酔いが回った祖父が、そんな事情まで口を滑らせた。
「旨い、この酒は本当に旨い」
心の底からそう言った暁に、祖父は嬉しそうに酒をすすめた。
暁がほぼ毎週末、十久酒造に通うようになって1年半が過ぎた。
今日はいつもと違って、スーツとネクタイ姿だ。
居並んだ祖父、少し体調がよくなったという父、夕花に似た優し気な母の前で、暁は両手を畳につき、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。夕花さんのお腹の中には、私の子供がいます。責任を取らせて下さい」
隣に正座した夕花も、畳に頭を擦り付けるようにしているのがわかる。
「ごめんなさい。でも…」
夕花の声が震えている。
かわいそうに、夕花は暁がなぜ避妊しているフリをしていたかを知らない。
夕花の妊娠に関して、暁は確信犯だ。
それを切り札に強引に婿養子となることを、夕花の家族はもちろん自分の家族にも認めさせようという計画だ。
自分が決して清廉潔白な性質でないのは、誰よりも知っている。
むしろ策士だという自覚すらある。
「でも、婿養子になってくれるという人が…」
夕花の母がおろおろしている。
「私が、いや、私ではダメでしょうか?」
暁は畳に頭を擦り付けたまま、言った。
「ふっ」
と頭上で笑う声がした気がして、暁は頭を上げた。
そして、夕花の祖父と目が合った。
その目を見て、暁は確信した。
ああ、自分の策略は、この人だけにはバレている。
「暁。いいさ、思うようにやってみろ。失敗したってかまわん。いやむしろそれくらい思い切らないと、次の時代に蔵元は生き残れん」
夕花の祖父が、自分と同じくらい策士であることを、暁は結婚して思い知らされた。
いまは、毎日が面白くしてしかたがない。
俺の人生は180°変わった。まさにパラダイムシフトだ。
新しいブランドの酒を、次の品評会に合わせて準備を進めている。
コンセプトもネーミングも、ラベル・デザインも販売方法も全て自分で考えた。
手ごたえは、ある。
「暁さん、おつかれさま」
いまだに初々しい夕花が、愛おしい。
「夕花、今夜…」
「だって、いま…」
「大丈夫だよ、ちゃんと調べたから」
妊娠中にセックスをしても問題がないことを、暁は直に医者に確認した。
薄暗い部屋の中で、夕花を抱き寄せる。
ほとんど抵抗らしい抵抗を見せたことがない。
「夕花…」
と愛しさを込めて呼ぶと、耳朶が早くも紅に染まる。
染まるのも早いが、ここは感じやすい部分でもあることを暁はもう知り尽くしている。
夕花の耳朶に唇を寄せると、「ゃん…」と熱い吐息を漏らした。
「夕顔」は夜に咲く花だ。
昼の顔とどんなに違うかを知っているのは、暁だけだ。
白い花弁を素直に開き、従順に淫らに無心に乱れる。
「夕花は、夕顔に似ている」
もう何度も言ったその言葉を、暁は繰り返す。
夕花が悦ぶからだ。
夕花の淫らな香りが強くなる。夕花はもう我を忘れて、一心不乱に夜に咲く。
くたりと腕の中へ落ちた夕花の横顔を眺めながら、暁は思う。
明日、一番に夕花に見せよう。
出来上がったばかりの新ブランド「夕顔」のラベルを。
※女の人生はカラダから変わる。(*´ω`*)